『或る暖かな昼下がり』

 

 急須に湯を注ぎながら、春雪異変のことを思い出した。

 

 白玉楼の主人から聞き出した道。
「――あなたが、私の藍を倒した人間ね」
 どこまでも続くような暗い石段、迫り来る敵と弾幕の先に、一人の奇妙な女がいた。
 豪奢な日傘を持った紫色のスカートドレス姿のその女は、どこか場にそぐわない雰囲気を放
ち、ふわふわと浮かびながらこちらを見ていた。
「あなたみたいな物騒な人間がいたら、おちおち寝てもいられないの」
 物憂げな物言いとは裏腹に、そいつは唇を引き上げ笑っている。
 その表情は上品ではあったが、同時に言い知れない妖しさを含んでいた。
 こいつは道中の雑魚とは格が違うのだと、私は直感した。
 強気に立ち向かうため、私は女に言い放つ。
「全然、起きてこなかったじゃない」
「今は起きているの」
 女はこともなげに言い捨てる。そして言葉を続けた。
「そんなことよりあなた、博麗神社のおめでたい人じゃないかしら」
 安い挑発だ。私は答える。
「前半はそうで、後半はそうじゃない」
 女は笑った。そして再び口を開く。
「博麗の結界は北東側が薄くなっているわ。あのままだと破れてしまうかも知れない」
 そんなことを私に教えるなんて、こいつの狙いは何なのだろうか。
「あらそう、それは危険だわ。わざわざ有難うございます」
「いえいえ、私が穴を空けてみただけです」
「って、引き直して置きなさい!」
 頭に血が昇った。まずい、このままではこの女のペースだ。私は心を鎮め言葉を紡ぐ。
「所詮、妖怪は妖怪。妖怪の始末も後始末も人間がやることになるのね」
「あら、あなたは気が付いていない? 今ここ白玉楼の私の周りは妖怪と人間の境界が薄くな
っていることに。ここに来た時点で、人間の境界を越していることに」
 私が既に人間ではないと言いたいのか。だけど、そんなことは関係ない。
「いいから、その境界も引き直してもらうわ。もともと、ここに来た目的はあんたに冥界の境
界を引き直させること。そこにきて、一つや二つ境界が増えても変わらないでしょ?」
 符を取り出し、臨戦態勢に入る。すると女はまた笑いだした。
「一つや二つ……結界は、そんなに少ないと思って?」
 空気が変わる。女が、自らの力を顕現し始める。
 闇が深まり、女の姿だけが存在感を持つ。
 私は身構えた。そして、一瞬の静寂の後、その戦いは始まった。
 この時私は気づいていた。この女が、これまで倒してきたどんな妖怪よりも手強いであろう
ということに。
 自分が、この女を畏怖しているのだということに。

 

 ――というのは、もはやいつの話だか。
「あら、美味しいわね。この煎茶。あなた、巫女なんか辞めて私のところで給仕をしたら?」
 私と死闘を繰りひろげた女。紫という名のその女は、いまや神社の縁側で湯呑みを持ってく
つろぐ、ただの暇人と成り果てていた。
「嫌よ、めんどくさい。お茶が飲みたくなったらここに来なさい」
 私の言葉を聞いて、紫は笑う。いつ見ても胡散臭い顔だ。
「まあ、あなたが巫女をやめてしまったら、私としてもつまらないものね。わかったわ」
「もちろんお賽銭を持ってね」
「それは聞かなかったことにするわ」
 予想通りのひねくれた反応に、思わず溜息が出た。
「まったく、そこが一番重要なのに」
 言いながら、空になった紫の湯呑みに茶を注いでやる。実際の所、こいつからお金を取るこ
となんて、たいして真剣に考えていない。
「あら、ありがとう」
 ごく自然に礼を言って、紫は湯呑みを両手で抱え、茶を飲む。そしてほう、と息を吐く。
「それにしても、平和ね」
 紫はどこか遠くを見つめている。
「白昼堂々、神社に妖怪がやってくるなんておかしなことだけど」
「あら、それも含めて平和じゃない」
「まあ、確かにそうかもね」
 私は同意して、紫の視線を追った。雲ひとつない青空の下、神社の境内は陽射しに照らされ
て、鮮やかな輝きを放っていた。夏を忘れきれない数匹のセミたちの声がわずかに聞こえる。
暖かな陽気の中でそよぐ風は、心地よい涼しさを作り出している。
 今は秋。今日も今日とて天気は快晴。
 異変と言える出来事は、ここ一月程まったく起こっていない。
「あなたとしてはこの状況、面白くないんじゃない?」
「……何よ、やぶからぼうに」
 突然の紫の質問に、私は不審を隠さずに応じた。
「だってあなた、異変が起きるといつも喜々として戦いに行くじゃない」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。私は自分の役目を果たしてるだけなんだから」
「役目、ね」
 含みのある言い方だ。
「何よ」
「別に。それより霊夢、今日は何か予定はあるの?」
「ない。悪かったわね。年中暇な神社で」
 悪態をついてやるが、紫は気にする素振りも見せない。
「そう、それならちょっと付き合いなさい」
 そして、なんともいえない胡散臭い笑顔を見せつけてきた。
「あんたの頼みごとって、いつもロクなもんじゃないのよね。いやな予感がするわ」
「まあいいじゃない。別に取って食おうとしているわけじゃないわ。ちょっとやりたいことが
あるから付き合って欲しいだけよ」
「取って食う、なんてやめてよね。あんたが言うと冗談にならないから」
 しばらく沈黙が続く。紫はこちらの出方を見ているようだ。
 さて、どうしようか。なんだかんだと言ってはみたけど、実のところ今日は本当に暇だし、
断る理由も特にない。
「……まあ、わかったわ。付き合ってもいい」
「流石は霊夢ね。感謝するわ」
「はいはい、そういうのはいいから。で、やりたいことってなんなの?」
「そうね……」
 紫は自らの能力で空間に狭間を作り、そこに手を入れた。何かを取り出すつもりなのだろう。
便利な能力だ。お酒が切れてもすぐに持ってこられるし。
「ほら、これ」
 紫は、一本の茶さじのような棒を取り出して見せてきた。そして続けて言う。
「私がやりたいのは、これを使って出来ることよ」


 その棒が何なのか気付いた時には、すでに私の頭は紫の膝に載っていた。
 太腿の柔らかな感触が頬に伝わる。
「ちょっと、いきなり何するの!」
「ほら、じっとしなさい。危ないわ」
 棒の正体は、昔ながらの耳かきだった。竹製の細長いへらに、ふわふわとした綿帽子の房が
ついていた。紫は私の頭を押さえつけながら、それを耳の中に入れようとしてくる。
「そんな、何の断りもなしに始めないでよ」
「あなた、付き合ってくれるって言ったじゃない」
「それとこれとは話が違う」
「あら、同じことよ」
 耳の内側にへらが当たる感触がする。やられた。これではもう迂闊に動けない。
「まったく、身勝手なんだから」
 仕方なく、私は紫にされるがままになる。
 ほんの十数秒だけ、沈黙が続いた。
「ねえ、霊夢」
 紫が声をかけてきた。耳かきは動かされ続けている。くすぐったさで思わず変な声が出そう
になった。
「何よ」
「あなたって、なんだかいつも無理してない?」
 説教じみた言葉を聞いて、
 紫は私の耳から耳かきを抜いた。頭は軽く押さえられたままになっている。私は首をまわし
て紫の顔を見上げる。
 紫は笑ってはいなかった。
「そんなことないわよ」
 私は否定したが、紫は話を続ける。
「妖怪に会えば威嚇して、異変があれば解決する。あなたの行動は、巫女という立場に踊らさ
れてはいないかしら」
 説教じみた言葉を聞いて少しばかり気分が悪くなったので、強く言い返してやろうと、私は
口を開いた。
「だから、そんなことないって――」
 言ってるじゃないの、と言おうとしたのに、私は何も言えなくなった。紫の瞳の中に、驚き
を隠しきれない私の顔が写っている。
 紫は、瞬き一つせずにこちらを見つめていた。
 その表情は今までに見たことがないくらいに真剣で、力強かった。
「霊夢、私は心配なの。いつかあなたが自分の役割に潰されて、壊れてしまうのではないかっ
て」
 笑う時とは違う目の細め方。鋭い眼光が私を射抜く。
 私は顔をそむけた。
「いつもふざけてばかりいるあんたが、何で突然そんな事を言うのよ」
 役割に潰される?
 思いもよらない言葉を聞いて、考えが空回りする。頭の中身が纏まらない。
 すると突然、私の顔を何かが覆った。甘い匂いがする。それは紫の両腕だった。
「「私はね、霊夢。自分の友人が破滅するところなんか見たくないの。それが、私があなたに
助言する理由」
 紫は続ける。
「私はあなたの戦いが好きだし、それは大切なことだとも思うけれど、戦いだけになってしま
ってもいけないの。だから、もう少し、普段から気を抜いて物事を楽しむようにしなさい」
「紫、あんた……」
 私たちはしばらくそのまま黙っていた。
 何を見るともなく、私はひたすら視線を外に向けていた。
 そして、先に言葉を発したのは、紫の方だった。
「……なんて、ね。冗談よ」
 顔から腕が離される。
「え?」
 私は反射的に訊き返した。
「あら、もしかして本気にしたの? 大丈夫よ、あなたはちょっとやそっとのことじゃ、潰れ
るどころか傷ひとつ負わないでしょうから」
 言って、紫は笑う。
 私は跳ね起きた。そして彼女を睨む。
「あんた、もしかして私をからかったの?」
 血が頭に昇る。話を聞きながら少ししんみりしてしまった自分が情けなかった。
 そして何より、変な文句で人をからかった紫のことが許せなかった。
「もう、今日という今日は怒った! 紫、表に出なさい。いまからスペルカードで――」
 私の言葉は、紫の指で遮られた。唇に指が当てられた。紫はそのまま手を上に動かして、私
の頭を撫でる。
「そう、あなたはそれでいいの。いつでも自分を見失わずに、ありのままの自分で居続けなさ
い。なにものにも縛られずにね」
 それだけのことで、私の気は簡単に削がれた。
 もしかたらこいつは、始めからこの言葉を言おうとしていたのではないだろうか?
 私はそう思った。そして考えた。こいつの言葉の真意を。
 そして、答えが出た。
「……あんた、もしかして、私が自分の役目として異変解決をしているって言ったことを気に
してるの?」
 さっきまでの会話を思い出す。紫は、私が『役目を果たしている』と言ったとき、どこか含
みのある返事していた。きっとこいつは、そのときから言葉を準備していたのだろう。
 紫を見る。彼女は笑っていた。
 そして言う。
「何のことかしら。私は冗談を言っただけ。あまり深読みされても困るわ」
 内心を隠すとぼけた答え。私はまたもや煙にまかれてしまった。
「そんなことより、耳かきが終わってないわ。続けましょう」
「私はもういい」
「私が良くないの。一度承諾したからには、最後まで付き合いなさい」
「……」
 何も言えなくなった。今日はもう私の負けだ。おとなしく勝者に従うことにする。
 私は素直に紫の膝の上に頭を乗せた。抵抗を諦めてみると、そこは思った以上に心地良かっ
た。柔らかくて、いい匂いがする。
 紫が耳かきを動かす。くすぐったい、と私は文句を言った。
「我慢しなさい。ほら」
「――っ、だから、そこを擦るのはやめて」
「あら、どこ?」
「――っ、あんた、わざとやってるでしょ」
「それにしても敏感ね」
「うるさい!」
 こんなやりとりをして、やっと片耳の掃除が終わった。ふわふわの綿帽子が耳の中に入れら
れる。多少こそばゆいが、これが一番心地良かった。
 次は反対側よ、と紫が言った。
「ほら、こっちを向きなさい」
 言われたとおりに、私は身をひるがえす。すると、紫の体が目前にあった。
 見たくもないのに、そのそびえるような胸が目に入る。
「……なんか、この向きはやり難いわね。目のやり場にも困るし」
「別に私はどこを見られても構わないわよ。まあ、気になるなら目をつぶっていなさい」
 私は目をつぶった。
 そして、甘い匂いと柔らかな感触に包まれて、私の意識はゆっくりと遠ざかっていった。


「――霊夢、終わったわよ」
 紫の声が聞こえて、私はゆっくりと目を開けた。
「おはよう、霊夢」
「ん……」
 状況を把握する。どうやら、私は耳かきをされているうちに、完全に眠ってしまったらしい。
 体を起こして周囲を見る。日はまだ落ちていない。眠っていたのはほんの短い間だったよう
だ。
「ずいぶん気持ちよさそうに眠っていたわね」
「別に。耳に棒が突っ込まれたままじゃ動くことすらできなかったから、仕方なく寝てただけ
よ」
 心地良くてつい眠ってしまったというのが本当のところだが、そんな事を話す義理はない。
言っても調子に乗るだけだろうし。
「まあ、耳かきをしてもらったし、一応お礼は言っておく」
 紫は笑う。
「あらあら、ご丁寧にどうも。でも、そんな必要はないわ。次は私がやってもらうから」
 私は溜息をついた。
「そんなことだろうと思った」
 そこでふと疑問に思って、私は紫に訊く。
「というかあんた、妖怪なのに耳掃除をする必要があるの?」
「どうかしら。まあ、やってみればわかるんじゃない?」
「……そう」
 真面目な返答は期待するだけ無駄ということだろう。
私は正座をして、紫の頭を膝に乗せてやる。
金色の長い髪をかき分けて、耳かきを彼女の耳の中に突っ込む。
 紫はしばらく私の耳かきの使い方に文句をつけていたが、やがて小さく寝息を立て始めてし
まった。
「まったく、世話がないわね」
 紫の顔を覗き込む。認めるのは癪だが、やっぱり綺麗だ。寝顔だけ見ていると、こいつが意
地の悪いひねくれ者だということを忘れてしまいそうになる。
 私は視線を外に向けた。
暖かな陽光を反射させながら、木々が風にそよぐ。ここには光が溢れていた。
 耳を澄ませば聞こえてくるのは、風の音、蝉の声、そして、紫のかすかな吐息だけだ。
 私は不覚にも呟いた。
「……たまには、こんなのもいいかもね」
 すると、
「ね、そうでしょう」
 と、下から声が聞こえてきた。
 心臓がひときわ高く鼓動を打つ。
「――っ紫、あんた、寝てたんじゃなかったの」
「あら、誰がいつそんな事を言ったのかしら?」
 胡散臭い笑顔で紫は言う。
 またしてもやられた。こいつは狸寝入りを決めこんでいたのだ。おそらくは、私からさっき
の科白を聞き出すために。
「手が留守になっているわよ」
 何も言わずに、私は耳かきを再開した。紫もこれ以上私をからかおうとはしなかった。ただ
し、その口からは小さな笑い声が数回漏れた。
「……ほら、これで終わり」
 仕上げに、紫の耳にふわふわの綿帽子を突っ込んでぐりぐりと回してやる
「それなら、次は反対側ね」
 どうやら、私が解放されるのはまだまだ先のことのようだ。
 紫は体を反転させる。そしてそのまま私の腰に手をまわし、足の間に顔を埋めた。
「ちょっと、なにするのよ!」
「こうすると気持ちいいんだもの」
「いいから手と顔をどかしなさい!」
 こんな日常のやりとりの中ですら、私はこうもたやすく手玉に取られる。
 私は思った。
 どんなにだらしなく見えても、紫は私にとっていつまでも畏怖しなければならない手強い存
在で在り続けるのだろうと。
 私は、そんなこいつを嫌いになることなんてできないのだろうと。
 とある暖かな昼下がりに、私は小さく溜息をついた。


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