『宴のあと』

 

 鼻をくすぐる甘い匂いと、胸元にかかるかすかな重さで目が覚めた。
「あれ……ここは……?」
 このとき私がいたのは、いつもの寝室ではなかった。目前には闇が広がり、遥か遠くに、爛々
と光る月が見えた。さらには耳の中へと、風に揺られて木々がざわめく音が入ってきた。
 どうやらここは外らしい。
 ぼんやりとする頭を何とか働かせようと思い、空を眺めてじっとしているうちに、だんだん記
憶がよみがえってきた。
「そっか、またやっちゃったのね」
 溜息と共に、呟きが漏れた。
 そう、昨日はいつものごとく、人間と妖怪入り混じっての宴会を行っていた。たぶん私は、そ
の宴会のさなかに酔い潰れて眠ってしまったのだろう。
 来ていたのは誰だったか。思い出そうとしてみる。
「たしか、魔理沙と、アリスと、紅魔館の連中と……あとは、誰だったかしら?」
 しばらく考え続けてみたが、頭が痛むばかりで思い出せない。きっと酒を飲みすぎたせいだろ
う。
「……まあ、別に誰だっていいわね」
 働かない頭をいくら働かせようとしたって、良い結果は望めない。
 それならば、いっそ諦めてしまった方が潔いというものだ。
「うん、もうひと眠りしましょ」
 自分で自分の考えを確認するために、呟く。
 そして、気持ちを切り替え寝なおすことにした。
 今はとにかく安らかな眠りが欲しい。
 仰向けの体をひねり、身を縮めて目をつぶろう。そう考えて、私は体を動かした。
 ――いや、動かそうとした。
「あら?」
 胸から下が押さえつけられているかのような感覚。姿勢を変えることすらできない。
 何度力を入れても同じように、奇妙な抵抗感がつきまとう。
「一体なんなのよ、もう」
 唯一動かせる首を曲げて、異変の起きた体へと目を向ける。
 するとそこに、月光を受け光り輝く、金色の大きな何かが乗っているのが見えた。
「――っ!」
 背筋が凍る。
 全身を、一瞬にして戦慄が駆け抜けた。
 バケモノだ。そう直感した。妖怪ではない。妖怪ならば手は出せない。新種の人食い生物だ。
そう判断した。食べられてしまう。身動きが取れない。倒さなければならない。スペルカードを
使うべきだ。
 思考が頭を駆け巡る。それと同時に、私は力を溜めはじめた。
 このバケモノを一撃で吹き飛ばす、あるいは粉砕できる術を今すぐに出さなければならない。
 緊張が高まるとともに、意識が覚醒していく。
 戦いの記憶が、焦りを冷静さへと変えてくれる。
 これまでの経験が、放つべき術を瞬時に構築してくれる。
 そして私は、持ち得る全ての力を込めてこう叫ぼうとした。
「夢想ふうい――」
「うんっ」
「えっ?」
 ――その叫びと同時、なにやら聞き覚えのある声がバケモノの方から聞こえた。
 途端に、体の力が抜けた。全霊を込めた術は無散し、冷静さはどこかに消え、緊張の糸も切れ
てしまった。
 そして理解した。
 この金色の大きな何かは、バケモノなどではないのだと。


 私の体を覆っていた金色の大きな何かは、常識はずれに長く量の多い髪の束だった。
 そしてその髪の根元には、常識的に考えれば当たり前のことだが、誰かの顔があった。
 体を覆い隠す、曲線を描き月光を反射させる艶のある髪。良質の陶磁のように透き通った肌。
意志の強さを感じさせる整った眉。長いまつげ。柔らかな印象を与える目元。芯の通った鼻筋。
熟れた林檎のように紅い唇。
 これは女だった。しかも、驚くほどに美しい。
 そこまではわかった。でも、そこからが問題だった。
「誰なのかしら、こいつ」
 そう、私はこの女の顔に見覚えがないのだ。
「まいったわね」
 一見した限りでは、妖怪か人間か判別がつかない。
 妖怪ならばぶっ飛ばしてもかまわないだろうが、人間であったらぶっ飛ばすのはまずい。いや
、別にぶっ飛ばしてしまってもかまわないのだが、そうしたら里の人間からの心象は悪くなり、
お賽銭が貰える可能性はぐんと低くなってしまうだろう。まあ、今まで里の人間がお賽銭を持っ
てきたことなどないのだが。もしかしたらこの女はお賽銭を持ってきたのかもしれないし。
 まずあり得ないことだと思いながらも、淡い希望を胸に抱く。
 参拝客かもしれないと考えるだけで、私は人に勝手にのしかかっている失礼な女に対して、少
し優しくできるような気がした。
「ねえ、あなた」
 穏やかに声をかけてみる。
 返事はない。深く眠ってしまっているらしい。
「ねえってば」
 少し語気を強めた。しかし、それでも女は動かない。
 ――この時点で、私の感情は高ぶりはじめた。優しくできる、という前言は撤回しよう。
「ちょっと、起きなさいよ!」
 怒鳴った。
 すると、女の体が少しだけ動いた。
「う……ん、あら、霊夢。おはよう」
 次の瞬間、女は顔を起こし、気の抜けた挨拶を寄こしてきた。


「おはよう、じゃない。今は夜」
 私は女の間違いを訂正し、さらに言葉を続けた。
「で、一体あんたは何者なのよ。人を敷布団がわりに使うなんて、図々しいにも程があるわ」
「あら、本当。まだ月が出てる。綺麗ね」
 会話がズレている。
「ちょっと、質問に答えなさいよ。あんた、誰なの」
「自分が誰だなんてわかる人、この世にいるのかしら。たぶんあの世にもいないんじゃない?」
「はぐらかすな」
「まあ、怖いわね。というか、私が誰だか本当にわからないの?」
「わからないから聞いてるのよ」
 ふーん、と女は息を漏らした。
「あなた、ずいぶん酔っぱらってるようね。まあ、あれだけお酒を飲んだのだから、仕方ないと
いえばそうなのかもしれないけど」
「酔ってなんかない」
 今も頭は痛み続けているから、酔っていないというのは嘘だ。ただ、素直に認めてしまうのは
癪だったのだ。私は続けて言う。
「それより、あれだけ、ってどういう意味よ。あんたは何を知ってるの」
「あきれた。もう完璧に記憶が飛んでしまったのね。まあいいわ、教えてあげる。あなたは昨日
の晩、私と飲み比べをしている最中にいきなり倒れたの。それで、そのまま放っておくのも何だ
から、いままで私がついていたの」
「飲み比べ?」
「そう、私が持ってきたお酒でね。いつも霊夢には一応お世話になってるから、そのお礼をしよ
うと思ったの」
 女の言葉を頼りに、記憶を遡ろうとしてみる。しかし、やはりこの女のことは何も思い出せな
い。頭痛が襲って来ただけだ。
「そんなことあったかしら」
「あったのよ」
「そもそも私、あんたのこと知らないから、お世話のしようがないと思うんだけど」
「……だから、何度言ったらわかるのよ。私はあなたの知り合いだって。なんでわからないの」
 頭が痛い。意識が朦朧としたまま答える。
「だってあんたみたいな綺麗な奴、私は今まで見たことないもの」
 口が滑った。女が食いついてくる。
「何、それって口説き文句?」
「違う、酔ってるから言い間違えただけ」
「さっき酔ってないって自分で言ったばかりじゃない」
 うるさい。
「もう、気にしないでよそんなこと。とにかく今はあんたが何者なのかわかればいいんだから、
とっとと名を名乗りなさいよ」
「嫌」
「なんでよ」
「だって、私たちってそこそこ仲がいいと思ってたのに、あなたは私のこと忘れちゃってるんだ
もの。そんな奴のお願いなんて、知ったことじゃないわ」
「う……、でも、仕方がないじゃない。酔ってるんだから」
「酔ってないって言ったじゃない」
 堂々巡りだ。
「言ったけど、嘘よ」
「嘘をつくなんて最低ね」
「じゃあ、言い間違いよ。悪かったわね」
 女は溜息を漏らした。
「わかったわ。そこまで言うなら、私が誰なのか、ひとつヒントをあげるわ」
 女は視線を空に向け、こう言った。
「あそこに本物の月が輝いてるのは、あなたと私のおかげなんだからね」
 そして視線を私の方に戻したとき、女の顔には、見るからに胡散臭い笑みが浮かんでいた。

「あんた、紫だったのね」
 今になってやっと気づいた。
「そうよ。まったく、人の顔を忘れるなんて失礼にもほどがあるわ」
「あんたは人じゃないでしょ。だいたい、私はあんたのこと、笑い顔と頭巾と傘で見分けてるん
だから、それがなかったらわかるわけないわ」
 紫は少し眉をひそめる。
「それにしたって、服装で気がついてもいいものじゃない?」
 紫は自分の服をつまんで見ている。
確かに、特徴的な服だ。フリルとリボンで彩られた、紫色のスカートドレス。普段通りの思考力
があれば、こいつが紫であることなど、一瞬で見抜けただろう。
「でも、仕方ないじゃない。私にだって事情があるのよ」
 その事情というのが何なのかは、決して人には話せない。ましてや、相手がこいつではなおさ
らだ。
「へえ、それってもしかして、私の顔に見とれてたせいで、他の部分に目が向けられなかったと
か、そういうこと?」
「な――!」
 何を言ってるんだ、そう言おうとしたのに、言葉にならない。
 まずい。
「あら、図星?」
 紫はこれまで以上に胡散臭い笑みを浮かべた。私は顔をそむけることしかできなかった。
「可愛い」
 私は何も言えなかった。最悪の奴に最低の弱みを握られたということだけがわかっていた。
 ――しかも、先ほどからずっと、私は紫に馬乗りの態勢で抑えられ続けていた。
これ以上に不利な状況はない。
「ねえ、霊夢」
 声がかかる。
「私、言ったわよね。いつも霊夢には一応お世話になってるから、今日はそのお礼をしようと思
ったって」
 しばらく沈黙が続いた。私は返事をすることもできず、小さく頷いた。
「でも、お礼っていうのも難しいのよね。霊夢のところではいつも宴会をやっているから、いま
さらお酒だけ持って行ったって、たいして意味はないだろうなって思ったし。それに、それだけ
じゃ私もつまらないもの」
 ここで、言葉が区切られた。
「だから、霊夢にはお酒をあげるだけじゃなく、普通じゃ味わえないような感覚を味あわせてあ
げようと思ったの」
 くすくすと笑い声が聞こえた。
「ね、こっちを向きなさい」
 頬に手が触れる。従うことしかできなかった。
 紫と視線が交差する。その目を見たとき、私は上と下、絶対的な立場の差を感じ取った。
「そう、そのままよ」
 紫の顔が近づいてくる。互いの呼吸が感じ取れるほどの距離まで来た。私は動くことができな
かった。
「何をするつもりか、全くわからないって顔ね」
 紫が口を開いた。
「その分だと、初めてなんでしょうね」
 彼女がそう言った次の瞬間、唇と唇が触れ合った。そして、私の口の中に得体の知れないもの
が入り込んで来た。
「――っ!」
 反射的に声が出そうになる。しかし、出たのは押し潰された呻きだけだった。
 口腔を熱い何かが押し進む。舌だ。直感的に理解できた。
 私はそれを押し返そうとした。しかし、効果はなかった。
 舌が絡めとられる。甘い。
不規則な動きに呼吸が乱される。苦しい。
何度となく蹂躙は繰り返される。
全てを侵しつくすかのように動くそれは、そのものが一つの生物のようだった。
 どれだけの時間が経ったのだろうか、不意に唇が放されたときには、私に逃げるだけの体力は
残されていなかった。
 呼吸を整えながら、なんとか言葉を紡いだ。
「なに、するのよっ!」
 しかし、意味をなさなかった。
「黙りなさい」
 紫の一言には、有無を言わせぬ響きがあった。
 私はまた、なにも出来なくなってしまった。
「良い子ね」
 紫は私の頭に触れた。
 慈しむような手つきで撫で続ける。そして、触れる位置がだんだんと下がってくる。
 頭、耳、頬、首、肩。柔らかく繊細なその指使いに反応し、体が震える。
 そして指はさらに下り、最も触れてほしくない場所にたどりつく。
「やっ……脇は……っ!」
 反射的に目をつぶる。体が一瞬浮き上がった。
「あら、ずいぶんと敏感なのね。こんなに敏感なところを常に外に出しておくなんて、あなた、
変態なんじゃないの?」
「なっ!」
 違うと言おうとした瞬間、掌が強く脇を撫でた。
「――ぁ!」
 声にならない叫びが漏れる。
 含み笑いが聞こえる。
「ここまで反応が良いと面白いわね」
 手が、中へと侵入する。着衣は乱され、二つあった膨らみの一つが、暖かさに包まれた。
 ここでまた、唇が重ねられた。
 今度は抵抗しなかった。
 先程とはうってかわって穏やかな動き。呼吸を合わせ、互いの存在を確かめあう。
 唇が離された。
「だいぶ慣れたみたいね」
 紫は笑った。
「別に……」
 私は視線をそらした。
 唇が重ねられる。肌が擦り合わせられる。
 体が熱い。
 幾度それらが行われたかわからなくなったころ、紫が言った。
「これなら、もうこっちも大丈夫そうね」
 紫の手が、それまで未到達だった場所へと進められる。
 触れる。思わず体を縮めた。
「怖がらなくてもいいのよ」
 紫は言った。私は首を振る。
「違う、汚いから……」
「そんなことないわ」
 しばらく、やりとりが交わされる。しかし、私の考えは変わることがなかった。
 このままでは、恥ずかしさで死んでしまう。
 私がそう言うと、紫はわかった、と言った。
「それなら、私があなたを解放してあげる」
 頭に手が置かれた。
「これから、あなたの理性と感情の境界を操るわ。そうすれば、羞恥心なんてもの消え去ってし
まう」
 この言葉を聞いた直後、私の意識は混濁した。
 何が起きているのか、よくわからなくなった。
 何を考えていたのか、よくわからなくなった。
何をしようとしていたのか、よくわからなくなった。
 ただ、何かに包まれているような、穏やかな気持ちだけがそこにあった。
 何かが、私の中に入ってきた。
 全身が熱くなった。
 心が温かくなった。
「そろ――――――――い」
 どこかから、声が聞こえた。
 その声に従った。
 心地良かった。
 そして、決定的に何かが変わったそのとき、私の意識は途絶えたのだった。


 目覚めたときには、すでに太陽が昇っていた。
「あれ、なんで……?」
 私は起きてすぐに、自分の寝ていた場所が寝室ではなく境内であったことに驚いた。
「あら、おはよう。起きたのね。霊夢」
 私の隣には紫がいた。髪をほどいた姿の彼女を見て、私は昨日起きたことを全て思い出した。
「あっ!」
 叫ぶと同時に、自分の体を探ってみる。
 しかし、どこにも異常はなかった。衣服の乱れひとつない。
 これはいったいどういうことだろうか。
 まさか、と思い聞いてみる。
「ねえ、紫。あんた、昨日の晩何があったのかって覚えてる?」
 紫は答える。
「昨日? 別に大したことは起きなかったけど。そうね、私とあなたで飲み比べをしていたら、
あなたが酔いつぶれて眠っちゃったってことがあったわね」
「他には?」
「他? 別にないと思うわよ」
 まさか。
 あれは夢だったのか?
「どうしたの、あなた」
 紫が顔を覗き込んでくる。
 私は目をそらした。
「なんでもない」
 そう答えるしかなかった。
「そう、ならいいけど」
 よくない。
「ねえ、紫」
「何?」
「私、さっきまでものすごくおかしな夢を見ていたんだけど、夢っていうのは何が原因で見るも
のなのかしら」
「どんな夢だったの?」
「それは秘密」
 答えられるわけがない。
「……ふぅん、まあ、いいけど。そうね、確か夢というものには、私が知っている限りでも、二
つのことを成す力を持っているわ。夢を見るときには、その二つのうち少なくともどちらかの力
が関わっているみたいね」
 紫は一度言葉を止めた。こちらの反応を確かめているようだ。私は続けるよううながした。
「ひとつは、人間がそれまでに体験してきたことを整理する力」
 私はあんなこと、今まで一度も体験したことがない。だから、夢を見た原因があるとしたら、
これではなくもうひとつの方だろう。
 私は固唾を飲んでゆかりの言葉を待った。
 そして、彼女は言った。
「そして、もうひとつは、人間がこうありたい、と願った状況を創り出し、願望を満たす力」
 私は、紫とああなることを望んでいた?
 そんなはずがない。私は叫びそうになった。
 しかし、できなかった。
 万が一、私が心のどこかであの行為を望んでいたのだとしたら?
 その考えを否定しきれなかった。
「ずいぶんと面白い顔をしてるわね」
 紫が笑った。
 若干焦りながらも私は返事をする。
「そんなこと、ないわよ」
「面白いかどうかを決めるのは私。ああ、今の顔、あなた自身にも見せたかったわ。いろんな感
情が混ざり合った顔。まるで、感情の境界がなくなってしまったみたいだったわ」
 紫の言葉に、私はまた強い恥ずかしさを感じた。
 そして、同時に、重要なことに気がついた。
 紫は境界を操る妖怪だ。
 ならば、彼女にはできたのではないだろうか。
 私は訊く。
「あんた、もしかして、夢と現実の境界を操ることもできるの?」
 紫は黙っている。
「もしかして、さっき私が眠っている間に、私の夢の中に入ったんじゃないの」
 紫の言った夢を見る二つの原因は、どちらも私にはあてはまらない。
 だとしたら、何者かの働きがあったからこそ、あんな夢を見てしまったのではないか。
 私はそう考えた。
 紫を見つめる。滅多に見られない真剣な表情をしていた。
 顔はそらさない。そらしたら負けてしまうから。
 不意に、紫が空を見上げた。目を細め、息を吐く。
 そして、再び目を合わせたとき彼女は言った。
「さあ、どうかしらね」
 そのとき彼女は、この上ないくらいに胡散臭い笑顔をしていた。


 そして、一月が経った。
 あの日以来、紫は神社に顔を出していない。
 宴会は毎夜のように開かれる。
 しかし、その席に彼女が現れることはなかった。
「どうした霊夢。何か心配ごとでもあるのか?」
 魔理沙が声をかけてくる。
 なんでもないと私は答えた。
「そうか、じゃ、さっさと宴の準備をしちまおうぜ」
「そういうことは手伝ってから言いなさいよ」
 いつも通りの軽口。二人で笑いあう。
「おっと、私はアリスに呼ばれてるからな。ちょっと行ってくるぜ」
 魔理沙が逃げた。
 私は一人きりで境内に取り残された。
 話す相手がいなくなり、独り言が口をついた。
「あいつ、もう来ないのかしら」
 風が吹く。どこかから甘い匂いが漂ってきた。
「来てるわよ」
 独り言に声がかけられた。
 振り向く。そこに紫がいた。
「ごめんなさいね。ちょっと用事があったから、しばらく顔を出せなくて」
「別に、あんたに来てほしくなんかないわよ」
「そう? でも、私はあなたに会いたかったから」
 二の句が継げなくなった。
 紫が続ける。
「ほら、久し振りだから、またお酒を持ってきたの。よかったら今日も飲み比べしない?」
 不敵な笑み。その裏に何があるのか。
 今度は何をたくらんでいるのか。
 私にはわからない。でも、わからなくてもいいのだと思った。
 どうせ、私は人間でこいつは妖怪、知恵比べでは勝てっこない。
 私はただ、楽しめるときに楽しみ、笑える時に笑い、飲める時に飲めばいいのだ。
 腹を据えよう。
 しばらく考えてから、私は紫の言葉に答えを返した。
「ええ、もちろん受けて立つわ」


――こうして今日も、宴は始まる。
 

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